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最終意見陳述書
2006年9月28日 原告団団長 玄 順 任
裁判長、最後にもう一度言います。教えてください。朝鮮人が何を悪いことをしたのか、根本を教えてほしいのです。「朝鮮、ナップン、チナップン帰れ」といじめられ、踏みにじられ、差別されてきました。「ナップン」は「悪い奴」という意味です。国をとられて100年、「悪い」レッテル貼られて100年、すでに子孫六代目が生まれています。どんなに悪いことをしたとしてもこんなに長い罰則や罪滅ぼしってあるのでしょうか、教えてください。 在日が年金もらえないのは、不公平や、使えるときはこき使って出すときに出さないのは卑怯やと思っています。植民地時代、戦争中は朝鮮人をみんな日本人としてこき使って、重労働、低賃金で使いたおして挙げ句の果てに戦争が終わったら利になることはみなカットされて、そしていまだに年金ももらえずに苦しんでいます。
私は死ぬほど辛いときは、母国で暮らす自分の姿を思い描きます。 子どもの頃、朝鮮ではハラボジ(祖父)、ハルモニ(祖母)、サンチョン(叔父)、コモ(叔母)、皆からとてもかわいがられていました。ところが、日本へ来てからは地獄の底へ突き落とされ、苦労の日々でした。日本に全財産を奪われなかったら、税金をせまられなかったら、日本へ来ることはなかったと思います。 戦前で私が13歳頃、道にしゃがみ込んでいる女性がいました。明らかに朝鮮からやってきた風貌なので、友人たちは差別される「朝鮮人」と同じように見られるのを嫌がり近づきませんでしたが、私はわかる限りの朝鮮語で話しかけました。その女性は道に迷って言葉もわからず途方に暮れているようで、私が連れて行ってあげました。私はその女性に「言葉も分からないのになぜ日本へ来たのか」と聞くと、「朝鮮で百姓してても全部取り上げられて食べられない。米の飯に憧れて、日本で結婚したら食べられると言われてやってきた」と言いました。アボジ(父)も、うちの田畑全てに火薬の材料の綿花を植えさせられ、家族が食べていけなくされ日本へ働きに来たんです。 そうやって日本のために苦労して貢献してきた朝鮮人に、いつまでこんなひどい仕打ちをするのでしょうか。何の補償もなく、そこまでしていて国が違うて、よう言えますね。 戦前戦中は、ご期待に添わなければ「非国民、非国民」、この言葉をもう耳が痛くなるほど聞いてきました。夫もそう言われて日本へ強制連行され、年中無休無月給で奴隷扱いで働かされました。 朝鮮から西陣に来た人が、朝鮮では「小学校一年のときは朝鮮語使うの許されたけど、二年になったら朝鮮語使うたら廊下に立たされる、それで三年になったら一言パッと出たらもう体罰やった。また、学校に行ったら一番に『われら皇国臣民なり』を言わされた。道を歩く人でも言えなかったら殴られ警察に連れていかれた。」と言うてはった。 私の母も、朝鮮の道端で歩いてたら「『君が代』を歌え」と言われたんですが、「君が代」歌えるわけがありません。それで「知らん」言うたら「この非国民め」と棍棒で殴られたらしいのです。そやから、私子どものとき、母はお巡りさんを見たら、「隠れよう」と家の中へ連れて入って便所へ隠れますね。あんまりそんなことするさかい「お母さん、なんにも悪い事してへんのになんでそんなするねん」と言うたら、「巡査、見たら棍棒で殴りよんねん」と怖がって隠れたんです。 ところが、戦争が終わったとたんに国が違う。いくら考えても理解に苦しみます。「非国民」という言葉を使ったならば、戦争が終わっても日本人と同じに差別なく、年金がもらえるはずです。私は年金申請にも行きましたが、国が違うって言われました。そのときから私は思ってます。国が違うのは昔からわかってるはずなんです。それを日本は、戦時中はご期待に添わなかったら「非国民」という言葉を使い、戦争が終わったら「国が違う」、あまりにも虫が良すぎるのと違いますか。税金などはみんな日本人と同じように取り上げられています。これが、私はいつまでも引っかかっております。
私の娘の孫のことでこんなことがありました。学校から泣きながら家に帰ってきたので、うちの娘が何でやと聞いたら、「韓国人帰れ」と言われたそうです。ちょうどその時は拉致問題で毎日騒いでる最中で、娘が学校へ乗込んで「韓国人言われるのは韓国人やからどうもない。そやけど『帰れ』と言う言葉は許されへん。私は在日二世です。強制連行された父の子どもです。強制連行されてここで亡くなる父の姿を自分の目の前で見ています。どれだけの悲しみで亡くなられたのかを身にしみて感じました。そやから許されへん、強制連行された者の子どもやから許されへん。」と抗議しました。そしたら、学校の先生が「韓国人帰れ」と言った生徒の保護者を呼んだそうです。その生徒と両親の真摯な態度での謝罪があり、校長先生からも「これからこういうことのないようにお互いに協力してお付合いしましょう」と話があって、うちの娘も納得して帰ったそうです。
今、日本の政治家には、植民地時代のことを、韓国のために良い事をしたとか、創氏改名は韓国人が求めてしたものだとか、そんなことを平気で言う政治家がいます。そして、いまだに私の孫だけでなく就職差別や若い在日の弁護士さんが入居差別にあうような現状さえ残っています。 一方、アジア諸国の中で、歴史をふまえた友好関係を育む取り組みも進んでいます。先月も、夏休みを利用して韓国と日本の若者の交流が紹介されている記事を見ました。また、日本社会の外国人差別に対しては、「内なる国際化」、在日外国人の人権と多文化共生にも徐々に目が向けられているようです。 外国人の中でも過半数を超える旧植民地出身者の韓国・朝鮮人等に対する理解、差別解消と人権保障の取り組みが地域で少しずつ広がり、その経験の積み重ねの上に、新しく日本へやってくる外国人との共生をはかる努力も進められています。 ただ、日本政府が史実に向き合おうとしてきていないのです。 私は1歳8ヶ月で日本へ来て、何の罪も無い子どもが働き子守をするために学校に行けず、いじめと差別を受けて苦労ばかりで働き続けてきました。80歳になろうとする今も働いています。なんぼ働いても苦しい生活を強いられています。私の人生はいったいなんだったのでしょう。 裁判長、良きアドバイスをお願いします。残り少ない私の人生を助けて下さい。最後の死に土産に年金をください。お願いします。 現在、障害者の息子と二人暮らしです。私の目も耳もよくないです。耳が悪いのは、織物の仕事をするときの機械の音のせいです。これから、まだ借金も返して生きていかねばなりませんが、いつまで仕事ができるかと思うと不安です。 最高学府で学ばれた裁判長ならわかるはずです。私たちが80年も日本で暮らし、日本に果たしてきている貢献と義務、そして、私たちの現状を見てください。事実と誠実に向き合い、裁判長の答えがほしいのです。 私たち旧植民地出身の被害者が、日本で死ぬまで「悪い」レッテルを貼られることなく、人間として当たり前の権利を保障されますよう、よろしゅうお願いします。
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